2013年の「はだしのゲン」閉架問題とこの国の今を考えてみた

2013年の「はだしのゲン」閉架問題とこの国の今を考えてみた

はだしのゲン閉架問題

少し古い話になりますが、

2013年に“はだしのゲン”の閉架問題というのがありました。

“はだしのゲン”とは、1973年に週刊少年ジャンプに連載された

原爆投下時の広島を舞台にした戦争漫画です。

そんな“はだしのゲン”を、市内の全小中学校図書室から児童に貸し出さないよう閉架扱いに

するよう島根県松江市の教育委員会が要請したのです。

理由は、過激、残虐な描写が児童生徒には不適切というものです

その後、東京や神奈川など、一部の地方自治体でも同じ動きがありました

この問題はマスコミにも大きく取り上げられ、世論、日本図書館協会などを中心に、

「表現、図書館の自由」の観点から大きな論議が起こった結果、

松江市は閲覧制限が撤回され、

ほかの自治体もそれに習う形で全国的な論議もおさまり、

この問題は落ち着くところに落ち着いたことになります

イデオロギーの問題にして蓋をしない

この件と絡めて少し書きたいと思います

私は、原作者中沢啓氏の経験と想いを

次の世代に伝えていかなければならないと思うのです

この漫画を反戦、反軍国主義のイデオロギー押し付けと批判する前に

実体験していないものが頭でっかちの思想で横槍を入れるのはどうかと思うのです

“戦争は悲惨”それは当たり前、

だからといって残酷なシーンを取り払ったところで

いったい何の意味があるのでしょうか

悲惨で残酷なシーンは確かに子供達の心に強烈な感情を植えつけるかもしれません

でも、当時の子供達にとっては

“悲惨で残酷”な世界がまぎれもない現実世界だったのです

人間の感情には必ず+と-があって、

+だけを見て-を見ないことは不自然なことでしょう

ありのままの人間の感情や言動を直視して、

人間は皆一様に反社会的な欲求だって持っていることを自覚させ、

そこから“その感情をどうするか”という話に持っていくことこそが

家庭で出来る教育ではないでしょうか

 

“経験を事実として伝えること”

“人間のやってきたこと”

“人間はこんなことまでやってしまう”

このように、人間が追い込まれたときにやらかしてしまうこと、

それを直視し、受け止め、話し合うことこそが教育ではないでしょうか

“世界を平和に”

そんなことは誰でもいえるのです

そうではなくて、

人間が限界に追い込まれたとき、

単なる二元論で納めることなく、そのことについて想像力を膨らませ、

自分だったらどうするかを話し合う、

それが、あえて悲惨で残酷な描写をありのままに伝えた

作者中沢氏の意図なのではないでしょうか

 

それは“いじめ問題”にも共通することだと思うのです

それをいいとか悪いとかで裁く事にいったいどんな意味があるのでしょうか

大切なのは自分の限界時に、

どういった思考でどのような行動が出来る人間になりたいかを

平時から話し合っておくことこそが大切だと思います

もちろん、人間だから自分が一番かわいいし、

自分よりも他人を優先することが単純にいいとは思えません

良い人間、出来た人間と思われたくていい子ぶっていたとしても、

実際、喰うか喰われるかの状況におちいったとき

果たして他人を優先することができるかどうかはわからないし

できなかったから悪いという事でもないと思います

この国の今

そんなことを考えながら、この国の今を見つめてみました

果たして、国を動かしている政治家は

“理想とする人間像”を持っているのかどうかはなはだ疑問です

彼らは“この国をああしたい、こうしたい”と理想論ばかりいいます

しかし、そう言っている本人が、物事の優先順位や本質を見極め、

人々に信頼される行動が取れている人間にはとうてい見えません

彼らを含めた一部の人たちさえよければ良いといった

恥知らずな行動を平気で取っているようにしか見えないのです

経済活動は錦の御旗ではあるまいし、

長いものに巻かれ何が何でもお金儲けに突っ走るこの国のあり方を見ていると

とても不安になってしまうのです

 

最近パッとしなかったN国党ですが、浜田参議院議員の質問は、

自分の心に明るい光が差し込んだようでした

N国党は、課題が多く支持政党ではないのですが、

浜田議員を見て久しぶりに全うな政治家が出てきたと思いました

また、ひょんなことから政治団体を立ち上げた

えらてんさんも未知数ですが、ぜひ頑張ってもらって

この国を少しでも変えて欲しい、

そんな期待を持っている自分に気が付きました